教えてほしい額縁

教えられるばかりではない。 われとわが眼で見て考えこんでしまうことも多い。
なにせ農家2軒だから夏の夜の流星群などを見るには絶好の場所なのである。 子供たちも夏の夜は星を見に上ってくる。
ところが山の夜空にも銀河が見えない。 私などは記憶に頼ってごく薄くかすむ銀河を探すことができるが、子供らには星座の図にのる銀河はもう絵空事なのだ。
当然7夕伝説から呼びさまされる情操も違う。 僻村塾はこうしたことどもで、海型人間の私を山の虜にしている。
当分私はまだ山から海を恋う年月を過ごすのかもしれない。 山にいると、都会にいては見えないことが見えてくる。
私は茅ヶ崎の自宅にいても、テレビは夜9時のニュース、相撲と競馬くらいしか見ない。 だから、大した差だとはいえないが、僻村塾のある山中ではNの衛星放送が受信できるだけである。

新聞も下から上って来る人があれば持ってきてくれるが、毎日届くとは限らない。 現代に生きるには、これが非常に望ましい状況なのだ。
それでなくても溢れ反る情報に振り回され始めると、情報を噛み砕いて頭に納めるためだけに多大な時聞を費やす。 しかも、知る、理解する範囲に止まって、考えるところにはつながらない。
だから見えなければいけないことが見えてこない。 確かに知は力だが、それは知って考えるからであって、知る点だけに関していうなら、鳥も獣も並々ならぬものを持っている。
たとえばこんな話がある。 白山にトンネルを掘り、高速道路を建設して東京から北陸までの所用時聞を一時間短くしようというのだ。
政治生命を勝けると称して考えついた男がいて、今は別な男が派手に旗を振って回っている。 いわば政治家のパフォーマンスだ。
これに陸惑されて早期整備を望む決議をした自治体がいくつかある。 一時間短くなるならないは、いわば知の範囲の問題である。
考えるとは、それが果たして必要なことか、背景になにがあるか、いかなる影響が出るかを慮ることだろう。 わかり易いことから順に書くと、旗振り役の周囲には土建業出身の小センセイ方が常にチラチラする。
まあどこにでもある話だ。 一時間に関していえば、年に何回かのピーク時をのぞけば、北陸高速道路はガラガラである。
巨大な犠牲を払って一時間短縮させなければならない理由はどこにもない。 要するに見せかけのエサなのだ。
影響に関しては少し話が変わる。 日本有数の観光地でありながら、ホテル建設ブームに全く乗り遅れた町が2つあることを御存じだろうか。

鎌倉と奈良なのである。 その理由はモータリゼーションによって両地とも巨大都市から日帰り圏に入ったからだと思う。
これを白山トンネル、新高速道路に当てはめると将来が見えてくる。 先ず高山市は昼食に寄るだけの町になり、世界遺産の指定を受けた富山県5箇山、岐阜県白川郷はトイレ休憩地になるだろう。
最も哀れを見るのは促進を望んだ白山麓の諸村で、間違いなく見向きもされない通過地の運命を強要される。 喜ぶのは工事関係者だけで、住民にとってはマイナスの経済効果ばかり、良いことはひとつもないだろう。
だからこそ計画はひそかに進行し、ある程度の予算がついたところでガパと推進派が名乗り出てゴリ押しを始めた。 それも石川県側の話であって、富山県、岐阜県側に連絡をとっても計画自体を知らない人が実に多い。
生態系という言葉は、残念ながら日本で』殆ど無力に等しい。 環境アセスメントも結論が先に出ていてそれを追認する数字合わせにすぎない。
その点ではわが国は政治家、官僚、企業3者協力によって、後進国中の後進国というべき現状に置かれている。 生態系の語が実は、石川県は自然保護の姿勢では立派な県なのだが、そそぎ難い汚名を冠せられている。
能登のトキの絶滅を防ぐことが出来なかった事実である。 白山周辺は貴重なイヌワシその他の蹴叡繁殖地なのだ。
白山トンネルがそれらに影響を与えるか与えないか、私は断定的にいう資料も知識もない。 影響を恐れなければならないことは断言できる。

こんなことを書くとあの頑迷な自然保護派がといわれるにきまっている。 だが、私はそんなトンネルを掘るなといっているのではない。
掘る、掘らないを決める前にみんなで考える必要がある。 政治家の思いつきで暴走し、後世へ大きな影響を残すのは良くないといいたいのだ。
イヌワシの雄大な舞いが見られる山は、私にそんなことを考えさせる。 考える人たちが全国から力を貸してくれるのを待っている。
僻村塾の母体、僻村学校を作る時には思いがけない協力者があった。 当時の県知事、故中西陽一氏であり、自治省から県に出向していた北里敏明氏であった。
この精神的支援は法人になった現在でも、谷本正憲知事を始めとする県各部門に受け継がれている。 というと官のニオイを感ずる人もあるだろうが、全く違う。

県は物心両面の援助はしても、内容には見事なまでに口を出さない。 また、どこかからの指導があるようでは、講師リストを見た人が一様に仰天するほどの、多彩きわまる人々は集まらなかっただろう。
西山一族を中心とする民の心意気が人の胸をうつのだ。 そのうえ、現京都市助役北里氏とは「いつかは」という約束があった。
最小限、山、川、海の僻村学校を作り、国や自治体の未来を担う青年たちが、各自好みの場所で半月なり一カ月なりのびのびと遊んでから、職場に配属される。 「そんな国にしたいね」との夢である。
いわばフランチャイズ制で、自分がいつでも帰ることができて、手足を伸ばせる自然のふところを持てれば、開発や建設の名で行われる破壊の実体も臨分違ってくるだろうと考えたのだ。 理想には遠いが、川、他人の考えたことに従う前に、自分の考え方を持つ生き方につながっていくのが、教える側の、あるいは語りかける側の最大の喜びなのだ。
塾生が秋の白山を訪れたことがある。 折あしく雨と霧で紅葉がほとんど見られなかった。
黙りこんでしまった彼らに私の気持ちも沈み込んだ。 長途の旅が無駄になったと考えていると思ったからだ。
だがそれは違っていた。 炉端で酒をぐいぐいあおりながら、彼らが語り出したのは、白山としてはいかにも淋しい紅葉から受けた衝撃であり、高知県では山間部でもそれさえみられなくなった切なきだったのだ。
ちなみに白山麓の針葉樹植林面積は林地の約2割、高知県は、私は知っているが、書かない。 ただ恐るべき高い比率と気候があいまって、紅葉に縁が薄いとしておこう。
こうしたことから、自分の生きる場所と他の土地とを立体的に対比する眼が育つ。 それはとりも直さず、自分たちが持っている真の豊かさはなにかという考え方につながる。

あの川面に、いつか紅葉が映えるような山をとり戻そう」。 彼らがそう語り合うのを聞いて、私は小さな僻村塾もそれなりの役目を果たしている喜びをかみしめた。
東京から来た客に「この豆腐は凄いぞ」と、大皿一枚を抱え込ませた青年もいる。 僻村塾との関係はごく薄かったり皆勤賞を出したかったり様々だ。
私はそれで良いと思うのだ。 眼の色を変える必要はない。
ただ僻村塾の誇りは、一対一の対話はいうまでもなく、時には講師3対生徒一などという討論の場が当然の如く成立することだと思っている。 ここ数年、私はこの国はひと息入れる必要がある、中断すべきことは中断する勇気が必要だといい続けている。
さすがに政府も似たようなことをいい出し始めた。

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